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Somo Somo
- 1-1 ワークショップをつくる方法 佐藤さん × 布山さん
- 1-2 ワークショップのフィロソフィ 佐藤さん × 布山さん
- 2-1 朝倉さんのそもそも(聞き手 原田さん)
- 2-2 原田さんのそもそも(聞き手 朝倉さん)
デジタルワークショップの<定義と歴史>
そもそもデジタルワークショップに定義はなにでしょうか?デジはらメンバーたちは考えます。ワークショップは何か。なぜ、それが必要なのか。デジタルとは何か?この先、何が子どもたちにとって必要なのか。自分たちには何ができるのか?
原田さん ビスケットをつくる研究者
朝倉さん ピッケをつくったクリエイター
今回参加してくださったみなさん
nishinojunjiさん ジャグラー
ToshihiroANZAIさん アーティスト
今回はちょっと大きなテーマです!デジタルワークショップの未来を考えるうえでも言葉や定義は大切です。デジはらメンバー意外の方もどんどん参加してくださいね。
「bitで遊ぼう」は、僕の定義ではワークショップとは呼ばないです。体験型学習です。違いは最後に「まとめ」があるかどうか。体験型学習は普通の学習と同じで、最後に狙い通りの感想とかまとめが得られたら成功。WSはむしろ狙いから外れたほうが成功。
(※「bitで遊ぼう」はメンバーの佐藤さんが学生時代に開催したコンピューターの仕組みをわかるためのワークショップです。)
そういう意味で、安斎さんの「間違えるのが面白い」という感想は、ワークショップ的であるんだけど、体験型学習からすると、それでいいの?って思ってしまう。間違えにくい加算装置のデザインの方が大事でしょって思う。
こんなデジタルワークショップを作りたいと思うもの。たとえば「色」。混色、補色、点描画。アナログの画材だと制約が多くてなかなか色そのものに集中できない。いいソフトがあれば直接、色を触れる。誰か色にこだわりがある人がいれば、その人と組んで作りたいね。
によれば、ワークショップは家族的類似で定義はないそうで、僕もそう思うのですが、
さんには同意。消費でなく生産の場、伝達ではなく生成の場と考えたい。
その「生成」というのは実践家にとっての生成も含んでいる?気がしてそれが重要だと思った。実践家にとって新奇な実験の要素があるのがWS。参加者にとっては生成的体験でも実践側にとって予定調和なら研修あるいは体験学習、かなぁ
目的の有無という0か1かじゃなくて、ゆるやかなねらいを持つけどWSとよべる実践はあると思います。ある方向性では考え体験して欲しいけど、最後の着地点は自由なので、学校教育のようには達成度評価を下さない程度の目的
WSを実験として捉えている人にとっては、同じプログラムデザインでも最初はワークショップだったのが回数を重ねていくうちにワークショップではなくなっていくということがあるのかな。
実際の活動は、WSの部分と授業の部分が交互に表れます。それぞれやり方のポイントが違ってて、授業の部分は、おしゃべりしない、先生に注目、なのにたいし、WSの部分はおしゃべりしろ、先生は無視、です。
そのモードの違いが子どもに理解しやすくなるように、場所を変えます。授業コーナーを作る。
プログラム全体をなんと呼ぶか、というより、細かいフェーズに分けたときの、それぞれの行動の指針を明確にするためにWSと授業を区別したい。
場所の分離は10年前にCAMPで見て以来可能な限り実践しています。
それすごいですね。僕は去年くらいにやっとそこに気づいて、試しにいろんな場所でやってみたら、いままで以上に上手く行ったと。
ワークショップと呼ばれているものに共通の性質を探ると定義できなくなるので,すでに他の呼び名があるものを除外していって,残ったものにまあまあ見られる特徴で定義しました.どっちでもないのが残るけどそれは僕の範疇ではないので気にしない.
体験型学習は僕も大事だと思っていて,たとえば
さんたちがやっているCSアプラグドは「bitで遊ぼう」みたいなのをパッケージ化してます.まだエリア的に偏っているので,僕も作りたいと思っています.インターネットパケットになって走り回るとか.
これは狙いは明確で,パケットは落ちる,パケットが盗み見られる,ルータが間違うと届かない,全体で管理していない,などが理解されればいいという体験です.最近だとNATの仕掛けも説明して家庭のアクセスポイントが何者か理解してもらいたいですね.
WS界?全体のことはよく知らぬので、ピッケで心がけていること。場と機会を用意する。固定的な達成目的はないけれど、願いや希望はある。個々の子どもがどこへ到達するかかは自由。WS時のひっかかりを、家まで持ち帰ってほしい。評価はしない。
進化の過程にあるものは、定義も分類もしないものですよ。なぜなら「~とはなにか」を書き換えること自体が「~」の進化だから。
だから定義っていうより個々の宣言が連なってクラスタをなしているわけで、その前提でいうと、周りの人にとって迷惑なワークショップこそワークショップで、そうでないものは僕の範疇からは外れます。
だから定義っていうより個々の宣言が連なってクラスタをなしているわけで、その前提でいうと、周りの人にとって迷惑なワークショップこそワークショップで、そうでないものは僕の範疇からは外れます。
周りに迷惑がかからない、筋書き通りに成功するワークショップは、芝居の上演(representation)再現であって、実験ではない。実験的でないワークショップというのは、無意味です(あくまで個人的宣言として)
体験型学習は、体を使ったほうが記憶・理解しやすいということでやっているんで、間違うかもしれないを積極的に利用しているのではない気がします。誰がやっても成功する方がむしろ気が散らなくていいと思う。
僕はviscuitの普及という目標があって、それを知識の伝達ではなく、創造的に伝えたいというのがあるんで、ワークショップとしてパッケージ化したい。といってもかっちり決まっているのは最初の15分くらいで、残りは自由。やる人が好きにやってくれればいい。
実験的ワークショップとはどんなものをさしますか?実験的とはなんでしょうか?いろいろな分野の実験があると思うので、あえて聞いてみます。
間違うかもしれないから、間違わないようにやる、その結果深い体験となる、というスキルトロニクスです。もし、誰がやってもうまくいくようにお膳立てしてしまうと、かえって印象は浅くなるでしょう。ゲームも失敗の可能性が含まれているから成り立つ。
シュルレアリスムって、実験的ワークショップの複合体ですね。いろんなワークショップデザインの宝庫。
無知の知ということが大事と思います。和風なら「謙虚」
体験として知識を伝達する、という思い違いは、あちこちにありますね。体験は知ったつもりを解体するものです。
僕自身実験的WSにはあんまり興味ないです.他人のWSを支援するソフトウェアは書きます.実験的WSは,臨機応変さが求められるようだから,どうしても今はアナログの方が有利だけど,うまいデジタルツールがあるとやりやすいんじゃないかと.Chart Itってそれですよね.
チャートイットはデジタルとアナログの有利なところを使っていますが。デジタルワークショップになるかは考えたことがありませんでした。知ったつもりは解体ですます。その解体を運営者が許容できるかは、これからの問題になってきます。
いやいやVISCUITが実験だから。
絵具や紙は、それ自身が目的を担っていないから、超越的ですね。コンピュータソフトウェアは、そこまで無目的な層をもっていません。そこを書けば、はじめての具体計算機になるはず。
私はこのインタビューを通してみんなでデジタルワークショップのStorytellingをつくりたいと考えています。そのために定義と歴史が必要だと考えます。なぜなら、「コンピューターを使ったワークショップです。」では説明できないものをすでに持っているからです。
小学校のコンピューター教育とデジタルワークショップの接点はありますか?
接点というより、どさくさに紛れてワークショップ的な教育を浸透させてやれ、と思ってます。なぜ、算数が必要なのかとか、教科学習の前段回に位置する。
巷で騒がれている、デジタル教科書議論ですが、賛成派反対派の両方に受け入れられるものを狙っています。デジタルでしか教えられないことをやっているんですから、当然。
デジタルイメージという団体が20年前にあったけれど、いまデジタルワークショップみたいな言い回しはどうなんだろう。「デジタル~」という修飾のしかた自体が、有効じゃなくなりつつある気がする。
水をさすつもりはないんだけど、たとえばVISCUITの柔らかい書き換えを紙や絵具でやったら、とか思うわけです。
はやく「デジタル」だけ特別扱いされない時代が来るといいと思いますね.というか,今回最先端はまったく狙っていなくて,対象はその逆ですからね.
viscuitの別の意味の面白さの追求は,普及するまで封印してますね.いままでの研究の姿勢が,最先端の食い散らかしばかりやってきたので,今回だけはちゃんと世の中に定着させたい.
なぜ名前にわざわざ“デジタル”ワークショップとつけたのか?という問いですよね。内部からの言葉というより外部からみたときのわかる言葉が必要です。それは、自分が何ものかを発見していくのに外の世界が必要だからです。
デジタル教科書って手で持ち歩いて落として割れたら?とか机にはめこんだら使いにくいよな?とか、論議とは別のところ?が気になってます。どっちかっていうと反対派ww 今の工夫のないままのデジタル導入には。
公園でランドセルを置きっぱなしで遊ぶことができなくなるとか,悪いやつに狙われるとか,あんまり高価なものは持ち歩かせたくないですよね.
そうなんですよーw 紙の教科書がiPad的なものより優れてるのは落書きできたり、投げたりしても大丈夫なところ
既存の置き換えとしてのデジタルは、いつも何かの犠牲がつきものなので、絶対的な価値のデジタルの方を押し出せばいいのに、と思います。でも、デジタル信者の多くはそれを知らない。だから反対派の説得に苦労している。
同感。アナログに対峙させたデジタルがひ弱なのはそこですね。身体のアルゴリズムとか、粘土計算とか、もっと本質的な旗印をかかげたほうがいいと思う。
デジタルvsアナログの対立軸で考えること、ナンセンスは同感。ピッケでも作成方法はどうであっても、つくっているのは物語や絵本なので、単に「おはなし」とか「絵本」と表現しています。検索では不利になるけど。
目の前でデジタルにおびえている人がいるとき,何かして上げられることはないのか,という思いでやっているので,あんまりそそのかさないでください.
「デジタルの時代がくるぞ〜!」と、おびえさせている人たちは「買え、使え」という単純な運動しかしていないんだけど。一回そこにのってしまうと他の人も感染させたくなるという特徴がありますね。
デジタルを拒否している人たちの方がよっぽどちゃんと考えているんじゃないかと思ったりしてます.そういう人たちとしっかり話をしたい.
ジタルツールを使うことで,はじめて教えることができるようになったことが沢山あります.僕はプログラミング言語を必須科目にすべきだと思ってますし.こうして,遠隔地の人とリアルタイムに会話ができるのもデジタルツールのおかげだし
実際に会わなくても会った気になる。実際に会うほうが必ず上だとは言わないけれど、子どものころからそれが当たり前の世代と、そうでない時代を知ってる私とでは、そのツールの価値や意味が違う。そのへんにも一般のデジタル化には不安覚えますわ。
デジタルを使ったコミュニケーションは,最初は易しく,発達に応じて難しくなるように教えるべきです.以前,ブログに書きました
デジタル」ってことさらに区別するのは、あとせいぜい1年だろうねっていうのはグループつくったとき原田さんとも話してました。「デジタル~」を冠してしまうことによるある種の陳腐化はわかってて。よって(仮)付。
デジタル」にどこかコンプレックスもって、デジタル/アナログって区別してたのは、私(大人)の方だった、子どもにそんな線ないんだ って気づいたのは、2005年のワークショップ(←コラム)
デジタルのちゃんとした定義だと,離散的な数値で処理することだから,ソロバンやサイコロもデジタルです.だけど,デジタルはらっぱでは,コンピュータに限りなく近い意味で使ってますね.
デジタルとコンピューターの違いはなんですか?
デジタルのちゃんとした定義だと,離散的な数値で処理することだから,ソロバンやサイコロもデジタルです.だけど,デジタルはらっぱでは,コンピュータに限りなく近い意味で使ってますね
言われてみれば、無機物=デジタル 有機物:はらっぱとして使っているかもしれません。
何がデジタルなのか。何がワークショップなのか。やっぱり定義は難しいですね。でも解ってきたこともあります。違いが明確にあるわけではないということです。コンピューターは知れば知るほど自由な便利な道具になってきそうです。そういえば。デジタルワークショップの歴史の話にはなりませんでしたね。笑 またいつか話しましょう。(宮原 美佳 :ムービーカード)
デジタルワークショップの<デジタルとモノ>
そもそもデジタルワークショップにとってデジタルとモノはどんなバランスをとっているのでしょうか?デジはらメンバーのワークショップはコンピューターとモノとの間をいったりきたりします。気がついてみれば誰もデジタルと無縁では生きない時代になりました。子どもたちはもっとデジタルと仲良くくらしていくでしょう。デジタルはとっても便利、モノもとってもステキ、でもどうやらどちらか片方だけ知っていれば良いというわけではなさそうです。
原田さん ビスケットをつくる研究者
佐藤さん アニメーションワークショップ開発者
デジタルワークショップをちゃんと見たことのない人は「何でもデジタルにすればよい。モノの良さをわかっていない」と思っている人が多くいまね。
同感、なんでもまずモノに触れるべし。できれば指を使って。
なぜ触る必要があるのでしょうか?デジタルでは何が失われてしまうのでしょうか?
コンピュータで嘘をついていないことを証明するのってすごく難しい.ソースをオープンにしてみんなで監視するしかない.ビスケットで教材を作る理由はそこにあるんだ.
モノに触るのは、学校では実験の授業です。科学的なホントの「実験」で大事なのは失敗すること。その例を集め対処する事。うまくいくのは一本の線で、失敗はそれ以外すべて。そのすべての広さを「デジタル」では実現できないのが最大の問題です。失敗しない実験こそウソなわけです。
この間、メディアアートならなんでもできる、と言ってた子がいます。若者の中にコンピュータつかえば間違いない、というような信仰が少なからずある。コンピュータがいかに不完全かということはモノとの対比でしか理解できないと思います。
なるほど!“「実験」で大事なのは失敗すること”予想できない失敗をしてしまうのがモノを扱う実験、でもその失敗から発見が生まれる。デジタルが万能だと思えるのは制作者の想定内の動きのみをしているときですよね。想定外を受け入れるデジタルは可能?
こんにちは久野といいます。 #dhara の議論面白いですね。「想定外のデジタル」それってまさにプログラミングだと思います。自分でこうだと思って作るけど別のことが起こってびっくりする。ちゃんと動いてもびっくりして(笑)。驚きの連続ですよ。
なるほど!私はプログラムはできないのでわからないのですがビジュアルプログラミング言語のVISCUITで、それを体感したことがあります。「あっ違う、そうか」Try&Erorrを繰りかえしと破壊と構築がデジタルワークショップの条件かもしれませんね。
ですから!Viscuitで作れるってことはプログラミングができるんですよ。そういうところは他の言語と同じです.
おっ!では今後はプログラムができる女です。と言わせていただきましょう。(怒られそう…。)想定外のデジタルゲームはあるのかな?デジタルでルールを作っていけるのはプログラムだけなんでしょうか?
ビスケットに対する直感は、他のプログラミング言語に対する直感と変わらないように作ったつもりだから、それでいいんですよ。
プログラミングの世界でも想定外のことがおこるのは確かにそのとおりですね。それはつまり「こんぴゅーたというモノ」に直接触れているという「モノ」とのふれあいの良い例で「デジタル(教材)」の対極だと思います。viscuitさんの粘土だというのも同じラインにあるかと。
なぜ想定外のことが起る学びや遊びが子どもにとって必要だと思いますか?
open endedってやつだね。想定外ってことは。逆に想定内ってつまらないけど、なぜだろう。世の中には、想定内じゃないとダメな人多いよね。
エネルギーの最小化の意味で、年を取る(15歳以上)と想定内で納めたがる人の方が、生物的には普通なんじゃないでしょうか。その価値観をこどもにも適用しちゃうのは間違い。たとえばネコなら仔ネコは刺激に活発で、大人ネコはずっしり構えて、分かれてますね。
エネルギーの最小化を自らの身体で知っていくのと、知識として知って押さえるのでは個体にとっての最大のパワーや効率が違うという事ですね。実家の山羊が小さいころ恐ろしいパワーで走って転んでを繰り返していました。
想定外が面白い人がいなかったら、想定外に対応できなくて人類滅亡しますよ。だから想定外を楽しめることは大切だと思います。で、プログラムですけど、小さな記述がコンピュータによってものすごく拡大されるから「想定外」ができやすい。でもものすごく厳密。そこが好きですね。
将来,本当の想定外が来たときにそなえて,いろんな安全装置をそろえて想定外の練習をするため.そういえば,失敗できないイベントの準備なんかで,アシスタントの山口さんより僕の方がずっと臆病に準備してますね.コンピュータは信じられない.
お仕事的に優秀な人は常に最悪のケースを考えて、それを回避するように行動しますね。絶対に0点の事態は起こさない。だけど100点でも80点でも構わない。アマチュアさんは100点か80点かを気にする。
つまり評価関数が評価関数にかからないと、システムとしてだめだと思う。ワークショップも。
あ、それです。評価関数を身につけることが大事なことと思います。
評価関数を身につけることが大事って具体的にいうとどういうことですか?わかるような、わからないような…。
「評価関数を身につける」というのは「あること(評価対象)」を見て「どれくらい良いか/悪いか判断できるようになる」という意味ですね。
私は料理の評価関数ができてないので、料理作ると子供に「味がない」「煮えてない」「生臭い」などと酷評されまくります。そもそも作ってる途中で味見しないし(しても善し悪しが分からないから)。
僕も絵画の評価関数ができてないようなので、有名な美術館に行っても、彫刻とか、時代背景の解説などばかりを楽しんでいて、全然絵を見てません。写真展は好きなんですけどね。
評価関数が評価関数にかかるというのは、むしろ評価関数を「身につけない」と言い換えるほうがいいかもしれません。「考えについての考え」をもつということ。「なんで褒めているかが褒められる」というデザインが必要だということです。
オープンエンドの話ですが、ノイマン型のコンピュータが成功したのは、自己言及とか癌化する可能性を排除しなかったからですね。致命的なバグやウィルスは、原理的に避けられない。たいていの工学パラダイムは、人間の幸せのためにそんなことを許しません。
ビスケットに足りないのは、オブジェクトの空間でルールをいじることです。たぶん、子どもの幸せのために抑制しているんだと思うけれど、それでチューリングマシンになるだろうか、と喧嘩を売ってみるw
どうしてやらないかというと,いい例が浮かばないからなんですが.と,書こうと思ったらたった今思い浮かんだので,一息ついたらやります.
油絵にしても粘土にしても水墨画にしても、たいていの画材は無限をはらんでいて、やりつくした先が必ず見えてくる。デジタルにそれはできないってことではなく、どこに仮想計算機を想定しているかという問題。いまのソフトウェアは、あまりにロゴス的で幾何学的でない。
viscuitはviscuitで書かれています」と、いつか言うことになるでしょう。
プログラミングを楽しいと思うか思わないかとか、想定外のことをどう学ぶかとかって、ある程度は生まれつきに決まっていて、それが人格を作るんだと思います。でも、そのブレの差を小さくすることで、その人の将来の可能性を広げることができるというのが教育の役割だと思います。
お互い得意なところで力を発揮すればいい。でも、他人の評価関数は自分の評価関数と違うんだということを知ることは重要。
特定の評価関数に縛られないし,自分の評価関数も固定しない.「昨日の俺はお前が一番好きだった」と言ってた軟派な国語の先生がいました.
家族みんなで、あーでもないこうでもないと言いつつ、安定した「評価関数」を作り上げていくのが家庭の味なのでは。
デジタルとモノでいうとデジタルが不利だと思う点は、いつも深くまで理解した人しか扉が開かれないことです。モノは見てわかる、空気が伝えるということがありますがデジタルアレルギーの人にとって闇は深く濃いことです。「良いか/悪いか判断できるようになる」前にアレルギーがおきます
アレルギーで言うと,絵画も音楽も料理もそうなんじゃないか?程度の差はあるけど.絵画がわからんやつは就職できないって脅されたら大変だけど,今の デジタルってそんな感じ.
デジタルへのアレルギーって言葉では分かるけど、なんか実感はできない。ツールへの不慣れによる恐れって感じ?理解しにくいモノへの苦手意識?
モノを表現しようとしてデジタル化しているが、空間的/時間的に欠けてしまう部分がある。それをいろんな方法で補おうとしている。コンピュータのワークショップとしては、その補い方法や欠けてしまう部分にフォーカスする必要があると思っています。
評価関数を身につける。ごく大雑把には自分で自分をほめられるようになるということです。独善ではなくて社会とか他人とか人によっては神とかそういうもののモデルを持つということ。
ちょっと整理すると,評価関数に関して2つの意見があります.ひとつは,安齋さんの評価関数を身につけるなという意見.もう一つが西野さんの評価関数を身につけよという意見.安齋さんの「身につけるな」はちょっとどきっとしますが,想定外を認められる人の定義でもあります
「評価関数を身につける」は、評価を固定する意味じゃないから、対立してないと思います
なぜ評価関数を引数にする評価関数が大事かというと、「知る」は自分の持っている評価関数の書き換えを意味するからです。「知る」とは、それまで取るに足りなかったことが、重大事に思えてくること。想定外にわくわくするのは、想定可能な領域が拡張され、自分が書き換えられるから。
アナログvsデジタルの話も、モノがあるかないかってことじゃないと思うな。デジタルは、やりながらパラダイムを変えるのが難しい。アナログは、同じ対象がアドホックに違うパラダイムの中で意味をもったりする。解釈するコードを変えても無意味にならないデジタルを作ればいい。
評価関数を身につけるって,評価軸を固定することかと思った.
学校教育が評価が大前提である以上,「評価関数を身につけるな」つまり想定外を許すということが受け入れられるはずがありません.どういう理屈でこれを押し通すか.一つは,今の仕事の大半は未来には残っていないというやつ.
何が未来に役立つ能力か,なんてわからないから,せめて,どんな状況でも乗り越えられる能力を身につけさせてやりたい.
デジタルとモノの話.ようするにデジタルは貧乏なんですよ.誰も見ていない部分は無くてもいいって態度でデジタル化している.モノは人間に見られているかなんて知ったこっちゃないから,解釈にも余裕がある.
まったく同感。はやりの「表象」にも同じことを感じる。人間を観測者としちゃうと、すべてプアになる。人間相手の製品に、あえて人間や表象の原理を用いないというポリシーが必要です。人を超えるなにかを想定しないと、人は人のままだから。
ここで急に現実に戻るのですが,そこを曲げて,何かを作ろうとしたとき,人を超えるなんていうとハードルが高くなりすぎるから,貧乏なりに意地を見せる方法ってないんだろうか.
たとえば可聴周波数の何倍も高い周波数は必要ない、なんていうケチなことを考えないでやってみる、ってことじゃないかな。見えっこない微細なものとか、忘れるくらい長いリズムとか、わかりっこない深いネストの文とか、。
デジタルの貧乏さって,そういう人間の知覚レベルのことだけじゃなくて.たとえば,英単語カード.紙だと何度も見たカードはボロボロになるって言ったとき,じゃあカードソフトに表示回数の属性を入れましょう,って感じの貧乏さ.
あくまでシミュレートしようってシミュレートするとどうしても貧乏ですね。なんか分からないけど作ったらシミュレートできてて、どうも他もわりとあってる、というのがいいです。実現法は分からないけど。
少しわかってきた.画面に表示するものには,ほとんど使わなさそうな属性まで全部用意しておく.必ず触れる.すごいクラスを作って,それを継承するように実装すればいいのかも.
富豪的プログラミング、とはちょっと違うんですか?
たとえば「単語カード」的機能を実現するプログラムを10000通りくらい作ったり誰かに作らせてみると、そのうち一つくらいは、たまたま、すり切れ特性が発現しちゃってるかも、という創発というか種まき刈り取り的なシステム設計、の感じ。
富豪的プログラミングが小手先の最適化はやるなってことだとすると,それにプラス作る人の想像力の限界まで属性を広げるというのが求められています.
富豪的プログラミングも「作り手の論理」だと思います。求められているのは観察者「達」の目に応える/堪えるにはどうすればいいかという事だと思います。世にそういうパラダイムは聞きません。
プログラマーたちの対話はまだまだ続きますが。デジはら空間ではここまで。続きを読みたい型はツイッターで#dharaで検索してみてくださいな。
デジタルワークショップはプログラマーが必ず関わっています。デジはらでは既存のソフトを使ったワークショップはデジタルワークショップだと思っていません。なぜなら、ワークショップ基盤をつくるソフトの構築には哲学が必要だからです。プログラマーは考えます。世界とは何か?デジタルとは何か?モノとは何か? 彼らの話に耳を傾けて、そこから世界の見てみると新しいデジタルとモノがみえてきました。わくわくしてきました!(宮原 美佳 :ムービーカード)
デジタルワークショップの<ほめる事と評価>
そもそもワークショップに「ほめたり」たり「評価」することはひつようですかね?デジはらメンバーのデジタルワークショップ、ワークショップ中に参加者の子どもをほめているのでしょうか?どのタイミングで、どのように?どうやって参加者の満足度をみているのかが見えてきます。デジタルの世界と参加者の笑顔の両方をいったりきたり、さぁデジタルワークショップの秘密を覗いてみましょう!
朝倉さん ピッケをつくったクリエイター
原田さん ビスケットをつくる研究者
佐藤さん アニメーションワークショップ開発者
聞き手 宮原 ムービーカードをつくるアーティスト
今回参加してくださった方
ワークショップにとって褒めるって要素はあんまり意識してこなかった。
アニメーションワークショップでは作品をみんなで共有するフェーズがあるけど、その時みんなの良い作品に対する反応は肌で感じる。言語化してしまうとなんだか色褪せてしまいそうでやっていなかったけど。ちゃんと言語化して褒め合うべきなのかなぁ。
子どもたちに掛ける言葉って難しいと思います。こちらの何気ない一言で、急に変わる瞬間がありますね。良くも悪くも。
そう、言葉にしなくても通じるね。それより、親には解説する。これは結構難しいことをやっているんですよって。
ワークショップをやっている人にとって「褒める」ってテーマはすごく気になっていたんですね。自分自身どうでもいい褒め方をされると逆に凹むこともあるので、褒める事には慎重です。
エレファントのほうでは、ほめるとかは全体ではやんないな。ditでやってるほうでは、プロセスを共有したスタッフが「こういうところをがんばってた」って紹介するっていうのはやった。
「褒めるとは」言語化しないと通じない努力とか能力とかを伝えること。一緒に作ってきた仲間とは通じあっているので不要。長期に渡ることは本人が気づかないので、それを伝えるのも褒めることかも。
ムービーカードワークショップではすぐにはほめません。子どもは大人の嘘誉めを見抜きます。一度「もっとできるね」とやりなおしにします。そうすると次はもっと工夫した作品、質があがります。そのときこそ誉めます
あえてききます〜。誉めるを言葉にしなくて伝わったと思う要素は何ですか? デジタルワークショップ的な形が残る誉め方をしていますか?
デジタルの欠点って、きれいに消せちゃうことなんで、結果だけじゃわからなくて、そうやってプロセスをみんなに見せないとダメですね。プロセスの可視化システムがあるといいのか。
ワークショップが議論されると、必ずでてきくる質問が「どうやって評価しているんですか?」ですね。学校で実施するときは評価するってことが教育のプロセスの一部と語られますが、本当にそうなんでしょうか。なんだか人に評価されて安心する人が増えているように思ってなりません。
僕は自分のWSではソフトウェア以上に伝えたいことはないから、使ってくれるだけで十分で、誉めたいことも叱りたいこともないなぁ。データが消えて作り直してくれた子どもには感謝した。
頑張ったことを誉めるんだったら、俺からじゃなくて、親から誉めてもらうようにするってのがいいかも。
たしかにそうですね〜。
WSの技のひとつが、参加者同士のコミュニケーションを利用することなんで、評価実験のために条件を整えるのが極めて難しいです。まず人間を分類して、平均的な人を集めて、その人達に対して条件を変えてWSする。つまらなさそう。
ほうほう、そうだよね。そういう部分を創る外側WSなぞも考えてみた。
ピッケも、発表会では、贈る相手+題名+作者名+お話を読む/語る だけ。人数少なくて時間に余裕あるときは+工夫したところ です。
見てる方から自然に、ほぉ~とか、おぉー!とか声が出るし、拍手が起こるので、それが発表してる子どもに伝わります。
あーだけど、見て回ってるとき、感心してしまうこと多いので、個別には、ほめちゃってるなぁ。子どもへの評価はしたこと無いです。WS&ソフトへの評価のために、参加者へアンケートお願いすることはあります。
幼児親子などでは、別途、親に話せるといいかもと思っていて、福岡でワークショップする時にやってみるかもしれません。
親に話すタイミングなど,なんかスマートな方法がないかなぁと思うんだけど,けっこう恥ずかしいんだよね.ちゃんとやらないと,親は子どもをあずけて帰っちゃうし.
私が思うのは、どちらも、本人自身による本人へのほめと評価が大事だということ。大きな声で「よくできたね」と言われ、ソレが目的になってしまうととたんに他人の評価だけを気にするようになり、歪んでしまいます。自分の声を聞くのが大事。
「いいね〜!」「その工夫面白いね。」「すばらしい!」ほめるって人間にしかできないことですよね。デジタルワークショップに参加した子どもたちは自然に進化してゆきます。そのときの大人は静かに子どもの心に寄り添うことが、もうほめるという行為なのかもしれません。デジタルワークショップの参加者の満足度の計り方について今度もディスカッションしてゆきたいとおもっています。ツイッターで参加してくださったみなさんありがとうございます。(宮原 美佳 :ムービーカード)
<遊びと学び>
そもそも「遊び」と「学び」って何ですかね?デジはらメンバーのデジタルワークショップは遊びの切り口でも語ることができるし、学びの切る口でも語れるワークショップです。メンバーのみなさんはどう考えているか聞いてみました。
朝倉さん ピッケをつくったクリエイター
原田さん ビスケットをつくる研究者
佐藤さん アニメーションワークショップ開発者
聞き手 宮原 ムービーカードをつくるアーティスト
今回参加してくださった方
遊びと学びについてどう考えていますか? デジはらメンバー意外の方でも興味がある方ぜひ参加くださいね。
遊びには暇つぶしの部分と学びの部分がある.学びには,苦しい学びと,楽しい学びがある.うまくデザインして「理想的な学び=遊び」を実現しよう.
なるほど〜。暇つぶしの遊びって具体的にいうとどんなものですか?なぜ人は暇つぶしの遊びを必要とすると考えますか?
やはり、僕はこちらが学びの本質だと思う。学校の枠は息苦し過ぎる。
僕もよくやるけど、テレビゲームとか、やればやるほどなにかが吸いとられて行く感じがする。でも、やりたくなるねえ。
へ〜何が吸い取られるんでしょうね。ゲームはいつもルール(法則)を覚えないといけないので私にとっては遠い世界です。苦しい遊びはないんですかね〜?楽しい学びもありそうですよね。
「理想的な学び=遊び」に必要な要素はなんだとおもいますか?
その質問の前に、人の学びには2種類ある。ひとつは、生きてゆくために必要なこと。もうひとつが、人生を豊かに生きるための、ある意味無駄というか、余裕の部分。
昨日飲み屋で、こっち側で楽器の話で盛り上がっていたら、向かいに座っていたおじさんが「私はリズム感がなくて」って。本来、人生を豊かに生きるための学校の音楽の時間なのに、音楽コンプレックスを生む原因なっている。やらん方がまだまし。
なるほど。生きてゆくために必要な学びは義務教育で終わるらしいですね。人生を豊かに生きるためのムダかもしれない学びはどこで、誰にまなぶと思いますか?
絵心がない(と自分で思い込んでいる)人とか、数学が苦手な人とを生んでいるのも学校のせい。
数学も人生を豊かに生きるためだと割り切ったほうがまだまし。それが算数の学習指導要領が最悪なんだよ。細かすぎる。
遊びも学びも誰かの主観的な「タグ」なので、その基準で何かに対して議論してもあんまり意味がない気がする。私は学びと遊びはほとんどイコールです。勉強とか、研究とかだと違ってくるけど。
幼い子にとっては、遊びと学びに境界ないですよね。字が読め書けるようになることは楽しくて嬉しい。今この歳になって、いちばん楽しい遊びも、学びかもしれないです。
正確に言うと遊び=学び。ワクワクしながらTry&Erorrを繰り返せる事。エモーショナルな感じ。勉強や研究はもっとストイックで、なんでこれやるの?とかメタな事を考えて、自分を律する工夫が必要。多分仕事も後者。
なるほど!Try&Erorrができることなら遊びであり学びであるということですね。世間にとっての定義よりデジタルワークショップをつくる人がどう考えて作っているかということが知りたいです。
遊びも Try&Errorを繰り返すやつと、テレビゲームみたいに吸いとられる感じのがあるよね。
暇つぶし的な気持ちがあるとどうしても浪費感があるんでしょうね。暇つぶしと遊びの間はグラデーションがあって繋がっている気はするけど、うまく捉えられないなぁ。
Try&Error的な遊び、吸い取られる遊びは具体的にどんな遊びのことですか?トランプ、鬼ごっこ、wii、お人形遊び…遊びってなんでしたっけ?!
猿を破壊するって実験。真偽は不明だけど。吸いとられるってそんな感じ。
なるほど!遊ぶというより遊ばれているという感覚が強い物だと、何かが吸い取られる遊びなんですね。遊びはルールをつくったり変更したり、変幻自在だと Try&Errorが無限にひろがりますよね。
あと、これも引っ掛かる。同じデジタルと教育に関する話題だけど、こういうのは嫌い。「子供にゲームをさせよ論」
これはいやですね。
子供にはプログラミングさせよ論を展開したい
応援します!
させるんじゃなくて、勝手にやるがいい
そうですね。誉める装置とは…びっくりな論理でした。でもなぜこういうものを違うとおもうのでしょうね。デジタルワークショップは知らない人からみたらきっと同じにみえるのかも。
親としても子どもには、消費する側ではなく作る側の活動をして欲しいと考えてしまいます。
親からみて、生産している子どもと、消費している子ども、どっちが魅力的に見えるかですね。
あと、周囲にいる魅力的な人が、クリエイティビティ溢れる子ども時代を過ごしてきたという事を見聞きしているからもしれません。。。
実際「つくること」を越えるエンターテイメントはないと思います
デジタルワークショップをつくる人のモチベーションの元が少し見えてきましたね。デジタルの遊びも学びも大好きだけれども、いま子どもたちが手にするデジタルの遊びや学びは、デジタルに遊ばれるものが多いんじゃないか!もっと面白い遊びがあるよ、そんなことをデジはらメンバーは考えています。ツイッターで参加してくださったみなさんありがとうございます。(宮原 美佳 :ムービーカード)
<想像力と工夫>
そもそも「想像力」て何ですかね?大切なのはよくわかりますし、ワークショップの目的とされることも多いです。想像する能力や、心の働きをつけるってどういう意味があるのでしょうか。あたりまえすぎて言語化があまりされません。あえてここで聞いてみたいと思います。 メンバーの佐藤さん原田さんは想像力というかわりに工夫が大切と考えているみたいです。ちょっとそのあたりも聞いてみましょう。
想像は、心の中に無限の宇宙もてることで、私は良いことと思っています。(豊かな実体験と言葉があってはじめて豊かな想像が生まれるので、妄想という意味ではありません)
なるほど〜
工夫できる子どもについても、共感します。つくる側にひょいと行ける子ども。大げさなことでなく、やってみよう、よくしてみようと思える心の持ち方みたいな感じ。
原田さんと佐藤さんはどう考えていますか?
工夫は、科学や工学に基づいた創造。プチ発明でもいいや。想像力は、物語力と言ってもいい。科学や工学とは関係ないな。
物語力と言ったときは、コミュニケーション力が必須だけれど、想像力は自分一人で閉じててよいのか不明。
工夫は実利が伴いますね。あと、リアルなフィードバックがあるかな。想像力はやっぱり物語り力って感じかな。時間の感覚がポイントなのかも。
わかった、ムーミンパパとスナフキンだよ! 工夫と想像力の違い。
なるほど!ビジュアルプログラミング言語の原田さんと、アニメーションワークショップの佐藤さんが子どもたちの工夫することを大切にしたいていた意味が少しわかりました。なにかに落とし込むことが重要と考えていらっしゃるんですね。理系的には想像力という目見えないものを目標にしたり共有することは気持がわるいのかもしれませんね。
デジタルワークショップは朝倉さんがおっしゃった通りに心に無限の宇宙をもって、それを形に落としてみんなで共有しあえますよね。想像力も工夫も生きていく力です。デジタルの世界は工夫や想像力と無縁のように思っている方もいらっしゃいますが、本当はそれを一番チャレンジできるものなんですよね!(宮原 美佳 :ムービーカード)
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